- 今日の疑いようのない常識は、明日には正しいとは限らない
- いずれ自らをディスラプトする種を育むこともしていかねばならない
- 学びを異分野からすら取り入れる思考が、変化の激しい時代には重要となる
疑いようのない常識は、今日までは正しかったかもしれないけれど、明日には正しいとは限りません。
しかし、今日まで正しかったことを本気で疑う人がいればクレイジーと呼ばれます。
今日まで正しかったことを、正しいと信じて行動してきた人たちの目には、疑うことそのものがクレイジーにうつるからです。
世界を変えるイノベーションを起こす人が皆クレイジーと呼ばれた所以はそこにあります。
つまり、本当に良い新規事業のプランは誰にも評価できないのです。
今日まで正しかったことを否定することは、かなりリスキーなことです。
どんなものであっても、その一部でも否定すれば、それはすべてに波及するからです。
だから既存事業の成功体験を積んだ、特に成熟事業を持つ大企業の経営陣にはそれを否定する判断は出来ないわけです。
判断できないから、評価できないから「やらない」という選択が未来への扉を閉ざしてきました。
変化の激しい時代においては、今日まで正しかったことのその歯車のたった一つが狂うことで、世界全体が簡単に変わってしまうことが容易に起きます。
この世界が安定し、昨日と同じような今日がやってくるのは必然ではないのです。
そもそもそれは必然ではありませんでしたが、緩やかに変化する世界においては、その変化を実感することはありませんでした。
現代においては、明らかに認知でき、しかも自分自身に影響が及ぶほどの激しい変化が起こっているのです。
逸脱的思考をもって、これまでの「当たり前」を疑問視し、普通なら構造的に見落としてしまうものをしっかり見て、可視化する。
それができるクレイジーな人材こそ、現代には必要とされています。そして、常に自らをディスラプトする判断をしなければなりません。
そういった人材をいかに組織内に内包できるか。
そのクレイジーな挑戦をいかに許容できるか。
いずれ自らをディスラプトする種を育むこともしていかねばならないのです。
また、クレイジーな主張をする側においても、どれほど正しく、合理的で知性的な判断だとしても、それを大声で叫べば相手を納得させられるかというとそうではないということを理解する必要があります。
人は必ずしも「正しい」判断ができるわけではないのです。
例えば、どれほど正しかったとしても、大声で叫べば叫ぶほど、聴衆に対して「これがわかっていないお前は間違っている」というメッセージを送ってしまうことになります。
それは反発を呼ぶだけです。それでは世界は変えることはできません。
世界を変えるためには、共感者をより多く作ることもまた必要なステップなのです。
未来の扉を開くためには、未来への鍵を評価する側においても、その鍵を提案する側においても取り組むべき「作法」があります。
それはすでに先人たちの数多くの取り組みや失敗の中で可視化されています。
その学びを異分野からすら取り入れる思考が、変化の激しい時代には重要となります。