『優秀な人材はすべからく「表現型可塑性」を保持する』という記事を書いた。
この「表現型可塑性」を手にいれるためには、知識とともに経験がなければ成り立たないと思っている。その時々の時流を読む力は、書籍や人からの話だけじゃ到底得られるものじゃない。
では、若者はどうやってこの「表現型可塑性」を身につけていくか、という話をしようと思うのだが、それには、社会人にこれからなろうとしている若者、なったばかりの若者たちに、少し前によく話していた内容をまとめてみる。
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君が自らを優秀と思うほど、優秀とは認識されない
学生時代にいかに優秀であったとしても、社会人としての優秀さとはまったく別物である。
これは『優秀さに絶対的な指標は存在しえない 』という記事でも書いたが、組織や環境において「優秀」の定義は異なるためである。
学生の優秀さは、あくまで学生において優秀であるだけであり、それは社会人にとっての優秀さとは異なる。学生時代に優秀だった人間が、必ずしも社会人になって活躍するわけではない。
さらに踏み込んで言うならば、学生において優秀であったとしても、社会人ではその底辺にすら届いていないケースがほとんどである。
もちろん、学生時代に優秀な人間は、社会人になっても優秀になる可能性は高い。しかし、それはあくまで可能性であって、社会人として優秀な人財であることと、学生時代に優秀であることは、必要条件でも、十分条件でもない。
(これは、社会人になったら学歴など意味がない、すべてにおいてアウトプットのみが評価対象となる、というボクの考え方がベースにはなっているが)
にもかかわらず、学生時代に「優秀」であったこと、自らに「行動力」があったこと、何らかの分野で「発想力」があったこと、そして「実績」があることをもってして、自身が「優秀」であることをナルシスト的に誇る学生が非常に多い。
残念ながら、そのアピールはまったくもって意味がない。なぜならば、君は「優秀」ではないからだ。まだ組織や環境に適応していないのだから。
では、社会人として「優秀な人財である可能性」から、実際に「優秀な人財」へと転化するために必要なことはなんだろうか。
まず一番重要なのは素直さ
それは端的に「素直さ」という、心構えただ一つであるとおもう。
なぜ、この「素直さ」が必要なのか、というと、経験のインプットを得るためであり、そのインプットの量を最大化するためである。
「素直さ」を具体例にあてはめてみれば、言われ仕事を文句を言わずにこなす、とか、アドバイスに耳を傾けて改善する、とか。
もう少し踏み込んでいえば、その「言われ仕事」の意味や、「アドバイス」の重要性に対する判断基準がない、もしくは狭いのだから、その判断基準を身につけるために、なにからなにまで受け入れて、血肉とせよ、ということ。
簡単なようで意外に、というか結構難しい。学生時代に「優秀」であったことに対するプライドは、若者であっても持ち合わせているものだから。そのプライドに照らし合わせたときに、上長や先輩を「仕事ができない」と簡単に決めつけて嫌う、という単純な思考に陥りがち。
その人は確かに事実として「仕事ができない」のかもしれないけれど、そこから学ぶものは山ほどある。そのための取捨選択を現時点でするのではなく、後々から判断基準として持ち合わせられるように、「素直」にすべてを受け入れよ、ということ。
少々話はそれるけれど、なぜ体育会系が好まれるのか、というところでは、この「素直さ」による将来の成長の可能性が、非体育会系よりも高い、というのは、理由のひとつだと思っている。体育会系には、上の人間の言うことは絶対、というのが身に染み付いているから。
それがいいか悪いか、は別にしつつも、結局のところ、この「素直さ」に勝る成長要素はない。客観的な「判断基準」を身につけるためには、主観的な経験のインプットが必要だから。
そして必要なのは少しの生意気さ
とはいいつつも、単に「素直」なだけでいいとは思わない。そこに少しの「生意気さ」は必要だと思う。
例えば、先輩から出された指示が違うとおもったとき。前述では、「そう思うな。すべて受け入れて業務をこなせ」と聞こえるような書き方をしたけど、その「違うとおもった」判断基準が正しいのかどうかを確かめることはしていい。
違う、とおもったことを、同期とうだうだ愚痴りながら「あいつは使えない」というのではなく、きちんと「確かめる」ことが大切である。この確かめる「生意気さ」は持ち合わせるべきだ。
判断基準はもちろん組織それぞれ、事業それぞれ、人それぞれだ。そのため、今の判断基準が間違っていても、先々には正しくなるかもしれないし、その逆もまたしかり。
そのため、経験のインプットの量をこなしながら、「確かめる」経験をこなすことで、判断基準の幅と精度があがっていくのだ。
素直さで幅を広げ、生意気さで精度をあげる
素直にうけいれることで、「基準」そのものの幅を広げ、生意気に確かめることで、その「精度」をあげていく。
経験のインプットの量を追い求めることで、幅が広がるから、様々な環境においても、客観的に判断できるようになる。また、判断基準の精度、つまり、質も同時に高めていくこと、この両方を目指すことで、環境適応力、つまり「表現型可塑性」を身につけることができる。
いまだけの「優秀さ」だけでなく、将来の「優秀さ」を身につけるために、必要な意識である。