すべてが不平等な世界で、唯一平等なもの
人間は、生まれながらにして不平等だ。
裕福な家庭に生まれる者と、貧困のなかに生まれる者がいる。健康な身体を持つ者と、病を抱えて生まれる者がいる。安全な国に生まれる者と、紛争地帯に生まれる者がいる。
これらの不平等は、本人の選択とは無関係に、最初から存在する。 努力では埋められない差が、出発点にすでにある。
この事実を前にして、二つの態度がある。「不平等だから仕方ない」と諦めるか、不平等のなかで自分にできることを探すか。
奪えないもの
環境は与えられるものだ。才能もある程度は先天的だ。機会も、巡り合わせに左右される。
しかし、意志だけは、誰にも与えられず、誰にも奪えない。
意志とは、何を大切にするかを自分で決めることだ。何に向かうかを自分で選ぶことだ。どのような状況にあっても、「自分はこうする」と決める力だ。
牢獄に入れられても、意志は自由だ。すべてを失っても、意志は残る。外部の条件がどれほど不利であっても、「自分はどうあるか」を決める権利だけは、誰にも侵されない。
ヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所で、すべてを奪われた。財産も、家族も、健康も、尊厳も。しかし、一つだけ奪われなかったものがある。「この状況に対して、自分がどのような態度をとるか」を選ぶ自由だ。
しがらみのなかの自由
現代社会に生きる人間は、無数のしがらみのなかにいる。
組織の論理。社会の期待。家族の要請。経済的な制約。これらのしがらみは、選択の幅を狭める。 しかし、選択の幅を狭めることと、選択を完全に奪うことは違う。
狭められた選択肢のなかでも、「どれを選ぶか」は自分で決められる。そして、「何を選ぶか」を自分で決めているという自覚こそが、自由の本質だ。
完全な自由は存在しない。あらゆる制約から解放された状態は、現実にはありえない。しかし、制約のなかで意志を持つことはできる。制約のなかで選ぶことはできる。
制約がある状態で選ぶことと、制約に流されることは、全く異なる。 前者は自由であり、後者は隷属だ。
意志の強さ
意志は、生存本能すら超えることがある。
人間は、信念のために命を賭ける。理不尽に対して、不利を承知で立ち上がる。合理的に考えれば従ったほうが得な状況で、それでも「否」と言う。
この非合理な力こそが、意志だ。 打算では説明できない。損得では理解できない。しかし、この力がなければ、人類の歴史のなかで起きた多くの変革は、起きなかった。
意志は、環境を変える力を持つ。すぐには変わらないかもしれない。一人の意志では足りないかもしれない。しかし、意志を持ち続け、その意志に基づいて行動し続けることが、やがて環境を動かす。
唯一の武器
世界は残酷だ。
才能の格差。環境の格差。機会の格差。これらの格差は厳然と存在し、努力だけでは埋められないことも多い。
しかし、格差のなかで意志を持つことは、誰にでもできる。 意志を持ち、意志に基づいて行動することは、最も恵まれた者にも、最も恵まれない者にも、等しく可能だ。
意志は、すべてが不平等な世界で、唯一平等に与えられたものだ。それをどう使うかは、完全に自分自身に委ねられている。
この世界で本当に自分のものと言えるのは、意志だけだ。 そして、意志だけがあれば、不平等の荒野を歩くことはできる。