嫌なことを耐え抜いた先に、本当に報われる日は来るのか

嫌なことを耐え抜いた先に、報われる日が来る。

この物語は、美しい。しかし、この物語が現実に当てはまる確率は、思っているほど高くない。

忍耐の神話

嫌なことに耐えることが成長に繋がる——この信仰は根強い。

しかし、冷静に考えてみれば、この信仰を支える根拠は薄い。嫌なことに耐えて報われた人間の話は広く語られるが、嫌なことに耐えて報われなかった人間の話は、語られない。 語られないから、存在しないように見える。しかし、実際にはそちらのほうが圧倒的に多い。

好きな教科は成績が伸び、嫌いな教科はどれだけ頑張っても伸びない。この経験は、ほとんどの人間が持っているはずだ。そして、この法則は、大人になっても変わらない。

内発的動機の力

好きなことに取り組んでいるとき、人間の内側では特別なことが起きている。

集中力が高まる。時間を忘れる。障害にぶつかっても、乗り越える方法を積極的に探す。この状態は、嫌なことを耐えているときには、決して発生しない。

好きなことへの没頭は、正のループを生む。やるから上達する。上達するからもっと楽しくなる。もっと楽しくなるからもっとやる。このループの回転速度は、嫌なことを耐え忍んでいる人間の成長速度を、圧倒的に上回る。

嫌なことを耐えているとき、人間のエネルギーの大部分は「耐える」ことに消費される。実際の作業に向けられるエネルギーは、残りカスでしかない。同じ時間を使っても、質が違う。

忍耐と隷属の境界線

ただし、すべての「嫌なこと」を避けるべきだと言いたいのではない。

自分が目指すものに向かう過程で、避けられない困難がある。この困難に耐えることは、忍耐であり、成長に繋がる。問題は、目指すものがないのに、ただ耐えていることだ。

目的のある忍耐と、目的のない我慢は、全く異なる行為だ。前者は主体的であり、後者は受動的だ。主体的に選んだ困難は人を強くするが、受動的に強いられた苦痛は人を蝕む。

嫌なことしかできない状況から抜け出す見通しが立たないとしたら、耐えることは解決策ではない。耐えれば耐えるほど、抜け出すためのエネルギーが消耗される。

人生の時間は有限だ

人生の時間は有限だ。

その有限の時間のうち、大部分を嫌なことに費やしている人間は、自分の人生を生きているとは言い難い。好きなことに時間を使えることは、特権ではなく、人間が本来持つべき状態だ。

嫌なことに耐え抜いた先に好きなことができるようになる、という約束は、多くの場合、実現しない。耐え抜いた先には、別の耐え抜くべきものが待っている。

だから、「いつか」を待つのではなく、今この瞬間から、自分のエネルギーが自然に向かう方向に動き始めるべきだ。 小さくてもいい。一歩でもいい。自分の意志で選んだ一歩は、他者に強いられた百歩よりも、遥かに遠くまで連れて行ってくれる。