利己を追い求めるほど、利己から遠ざかる逆説
自分の利益を最大化しようとする。
これは、一見すると合理的な行動原理に思える。自分のために動き、自分の成果を主張し、自分の取り分を確保する。しかし、この行動原理には、致命的な盲点がある。
利己の限界
自分の利益だけを追う人間は、視野が狭くなる。
自分の成果。自分の評価。自分の報酬。これらに意識が集中すると、周囲で何が起きているかが見えなくなる。自分のことだけを考えている人間は、自分を取り巻く状況の全体像を把握できない。
全体像が把握できなければ、自分の判断が全体のなかでどのような意味を持つかが分からない。自分にとっては正しいと思った判断が、全体にとってはマイナスになっていることがある。そして、全体がマイナスになれば、結果として自分もマイナスの影響を受ける。
利己的であればあるほど、自分が依存しているシステム全体の健全性に対する感度が鈍くなる。 そして、システムが崩壊したとき、最も損をするのは、システムの健全性を顧みなかった人間だ。
利他の構造
逆に、他者のために動くことは、一見すると非合理的に見える。
自分の時間とエネルギーを他者のために使うことは、自分の取り分を減らすように思える。しかし、実際にはその逆のことが起きる。
他者のために動いた人間には、他者からの信頼が蓄積される。信頼は、目に見えない資産だ。しかし、この目に見えない資産が、長期的には最も大きなリターンを生む。
助けを必要としたとき、信頼がある人間のもとには助けが集まる。機会が生まれたとき、信頼がある人間に最初に声がかかる。利他的な行動の蓄積は、利己的な行動では決して得られない種類のリターンをもたらす。
視座の高さ
自分のことだけを見ている人間と、全体を見ている人間では、判断の質が異なる。
自分のことだけを見ている人間は、短期的で局所的な最適解を選ぶ。全体を見ている人間は、長期的で全体的な最適解を選ぶ。 そして、多くの場合、後者の判断のほうが、結果的に自分にとっても良い結果をもたらす。
これは、視座の高さの問題だ。
低い視座からは、目の前のことしか見えない。高い視座からは、全体の構造が見える。全体の構造が見えている人間は、全体のなかでの自分の最適な位置を見つけることができる。
他者の視点に立つことは、視座を上げることに等しい。自分の視点だけでは見えないものが、他者の視点を通じて見えてくる。
巡り巡るということ
人間は、一人で生きているわけではない。
どんな成果も、純粋に一人の力だけで生まれることはない。必ず、誰かの助け、誰かの存在、誰かの影響がある。この事実を認識するかどうかが、利己と利他の分かれ道だ。
他者の助けによって成果が生まれたのなら、その成果を自分だけのものとして主張することは、構造的に誤っている。
利他とは、自己犠牲ではない。 自分が受けた恩恵を認識し、それを循環させることだ。自分が助けられたから、他者を助ける。他者を助けたから、また別の場面で助けられる。
この循環のなかにいる人間は、利己だけを追う人間よりも、結果として多くのものを手にする。なぜなら、循環のなかでは、与えたものが形を変えて戻ってくるからだ。