退屈に耐えられない人間は、何を失ったのか
先月、乗り換えの駅で、電車が四十分遅れたことがあった。ホームの電光掲示板には遅延の理由も再開見込みも表示されず、ただ数字だけが刻々と更新されていく。その数字を見つめる数十秒すら持たないうちに、ポケットの中の板へと指がもう動いていた。 手持ち無沙汰の数秒は、いつのまにか埋めるべき欠落として扱われている。
空白は、埋めるべき無駄ではない
かつて退屈は、何もない時間として素通りされていた。今は違う。空白が生まれた瞬間、それを埋める道具が先に動き出す。だから空白は、放置される前に消される。
この習慣の恐ろしさは、退屈を感じることそのものが減っていく点にある。何もしない数十秒を無駄だと判定する前に、ポケットから手が動いている。 退屈を感じる前に、退屈から逃げ切っている。
そうして積み重なる空白の消去は、単なる暇つぶしの話では済まない。何もしない時間が消えるとき、そこで起きていたはずの何かも、同時に消えている。
思考は、何もしていない時間にだけ発酵する
外部からの刺激が途切れたとき、頭の中では別の作業が始まる。目の前の情報を処理することをやめた頭は、これまでに蓄えられた記憶や断片を、勝手に組み合わせ始める。
新しい着想の多くが、机に向かっている最中ではなく、シャワーを浴びている時や、電車を待つ数分に生まれるのは偶然ではない。 思考は、意図して考えている時間よりも、何も考えていないはずの時間の方でよく育つ。
退屈な数十秒を埋め尽くすことは、この発酵の過程を毎回中断させることに等しい。発酵する前に別の情報が流し込まれれば、組み合わせが起きる暇はない。何も生まれないまま、ただ時間だけが消費されていく。
退屈を埋めることと、そこから逃げることは違う
空白を埋める行為そのものより重い問題がある。埋めるか埋めないかを選んでいる感覚そのものが、いつのまにか消えている。
意図して情報を取りにいくことと、反射で手が動くことのあいだには、決定的な違いがある。前者には選択があるが、後者にはない。 選んでいない選択は、選択とは呼べない。
退屈を埋め尽くす前に、一呼吸だけ置いてみるといい。その数十秒に何が浮かぶかは、埋めてみるまで分からない。