「いつか」という言葉は、時間を守っているようで、時間を奪っている
去年の暮れ、机の引き出しを片付けていたら、五年前の手帳が出てきた。あるページに「いつか電話する」とだけ、走り書きが残っていた。誰にかけるつもりだったのか、今はもう思い出せない。 「いつか」と口にした、その瞬間にだけ、時間はまだ十分に残っているような気がしてくる。
時間の有限性は、「いつか」を口にした瞬間にだけ遠のく
時間が有限であることを知らない人はいない。人生の残り時間は減り続け、後回しにした分だけ、選べたはずの機会は失われていく。ただし、それを知っているのと、実感しているのとは、別の話だ。
あの手帳を見つけたとき、驚いたのは内容を忘れていたことではなかった。五年という歳月の重みを、それまで一度も感じずに過ごしていたことだった。「いつか電話する」と書いたその日、自分にはまだ十分な時間が残っていると思っていたはずだ。だが実際には、その一文を書いた瞬間から、取り返しのつかない量の時間がすでに動き出していた。
「いつか」という言葉を使うその瞬間だけ、この当たり前の感覚が奇妙に薄れる。「いつか」という響きの中には、期限も残量も存在しない。まるで時間がまだ無限に残っているかのような錯覚が、その一語とともに立ち上がる。 有限性への実感は、「いつか」という言葉の中でだけ、麻痺する。
そしてこの麻痺は、一度きりでは終わらない。同じ言葉を使うたびに繰り返され、繰り返されるたびに、有限性への感覚そのものが少しずつ摩耗していく。気づいたときには、「いつか」と口にすること自体が、時間の減り方を感じ取る神経を鈍らせる習慣になっている。あの手帳のメモを五年のあいだ一度も思い出さなかったのも、この麻痺のせいだったのだろう。
「いつか」は、決めていないことを、決めたことに見せかける
この麻痺を引き起こしているのは、「いつか」という言葉が持つ、もう一つの働きだ。「まだ決めていない」という状態には、居心地の悪さが伴う。決断を先延ばしにしている自分を、どこかで負い目のように感じる。だから人は、その居心地の悪さを解消するために、「いつかやる」という言葉を差し挟む。
この一言を口にした途端、奇妙なことが起きる。決めていないという事実は何も変わっていないのに、まるで方向性だけは定まったかのような安心感が生まれる。 「いつか」は、意思のない状態に、意思があるかのような外見を与える。
厄介なのは、その安心感と引き換えに、着手する動機まで一緒に消えてしまうことだ。居心地の悪さは、本来なら行動を促す圧力として働くはずのものだった。その圧力を「いつか」という言葉で先に取り除いてしまえば、あとに残るのは、何もしなくていい理由だけになる。 「いつか」とは、判断を保留する言葉ではない。判断していないという事実そのものを、覆い隠す言葉だ。
「まだその時ではない」と「いつかやる」は、似て非なるものだ
「今はまだその時ではない」という判断と、「いつかやる」という言葉は、しばしば同じもののように扱われる。だが両者の間には、決定的な違いがある。
前者には理由がある。なぜ今ではないのかを説明でき、いつ再考するかの見通しも、たとえ漠然とであれ持っている。判断はすでに下されており、ただその実行が先に延びているだけだ。一方「いつかやる」には、たいてい理由もなければ、再考の予定もない。それは判断の先送りではなく、 判断そのものの完全な放棄を、先送りという穏やかな言葉で包み直したものにすぎない。
この違いを曖昧にしたまま生きていると、「いつか」だけが、静かに積み上がっていく。あの手帳のメモもその一つだった。取り戻せなかったのは、電話をかけるという行為だけではない。五年という歳月のなかで、誰にかけようとしていたのか、という記憶そのものが、いつのまにか一緒に失われていた。
「いつか」とは、時間を守る言葉ではない。 時間を奪う言葉だ。
「いつか」と言いかけた、その瞬間に立ち止まってみる。それを今済ませておかなければ、いつか失うのは、その行為だけではないかもしれない。——なぜそれをしたかったのか、という記憶そのものかもしれない。