一人の人間のなかにも、複数の視点が必要だ
井の中の蛙は、井戸の形しか知らない。
井戸の中が世界の全てだと思っている。丸い空が世界の形だと信じている。しかし、蛙が無知なのではない。見える範囲が限られているだけだ。
人間もまた、自分の環境の形しか知らない。自分の経験の範囲でしか物事を判断できない。自分の価値観のフィルターを通してしか世界を認識できない。
この制約を超える方法は、二つある。環境を変えるか、自分のなかに複数の視点を育てるか。
単一の視点の限界
一つの職場に長くいると、その職場の常識が自分の常識になる。
「ここではこうやるものだ」「この業界ではこれが当然だ」「うちの会社ではこれが正しい」——これらの「常識」は、特定の環境でだけ通用するローカルルールだ。 しかし、その環境にいる限り、ローカルルールと普遍的な原理の区別がつかない。
この状態で、自分の仕事を根本から問い直すことは極めて難しい。今やっていることの前提を疑うためには、その前提の外側に立つ視点が必要だ。 しかし、外側の視点を持っていなければ、前提の存在にすら気づかない。
当たり前すぎて見えなくなっているもの。それこそが、最も変えるべきものかもしれない。しかし、見えていないものは変えられない。
個人内多様性という概念
集団に多様性が必要であるように、個人のなかにも多様性が必要だ。
一つの角度からしか物事を見られない人間と、複数の角度から見られる人間では、同じ現実を前にして、見えるものが根本的に違う。
個人内の多様性とは、異なる経験を通じて獲得された、複数の「見方」のことだ。技術者の目と、営業の目。大きな組織の感覚と、小さな組織の感覚。安定した環境での判断力と、混沌とした環境での判断力。
これらの「見方」が一人の人間のなかに共存しているとき、その人間は状況に応じて視点を切り替えることができる。 一つの視点で行き詰まったときに、別の視点で突破口を見つけることができる。
多様性の育て方
個人内の多様性は、安定した環境では育たない。
多様性は、異質な環境に身を置くことでしか育たない。 慣れ親しんだ場所を離れ、自分の常識が通用しない場所に行くこと。そこで居心地の悪さを感じながら、新しい「見方」を獲得すること。
その方法は様々だ。異なる業界で働くこと。異なる規模の組織を経験すること。異なる文化圏の人間と深く関わること。あるいは、全く新しいことに挑戦し、初心者に戻ること。
共通するのは、「自分の既存の枠組みが通用しない体験」を積むことだ。 その体験が、新しい枠組みを自分のなかに追加していく。
ただし、体験するだけでは十分ではない。体験を通じて得た新しい視点を、意識的に自分のなかに統合する必要がある。それには、自分が今どこに立っているかを正確に認識する力——自己認識の力——が不可欠だ。
現在地の認識
目標がなくても、成長はできる。
しかし、現在地が分からなければ、どこに向かっているかも分からない。 そして、どこに向かっているか分からなければ、新しい視点を獲得する方向を選ぶこともできない。
自分はどのような経験を持っているか。どのような「見方」を獲得してきたか。どのような「見方」がまだ欠けているか。この棚卸しを定期的に行うことが、個人内の多様性を意図的に育てるための前提だ。
そして、足りないものに気づいたら、その足りないものがある場所に、自ら飛び込んでいく。快適さを手放し、不慣れな場所で、新しい「見方」を身体で学ぶ。
変化の激しい時代に必要なのは、一つの優れた視点ではなく、複数の異なる視点を持ち、それらを状況に応じて使い分ける柔軟さだ。 その柔軟さは、安全地帯の外でしか手に入らない。