自分を棚に上げなければ、誰にも何も言えなくなる

他者に助言をするとき、ある種の後ろめたさがつきまとう。

「自分だってできていないのに」——この感覚が、口を閉ざさせる。相手に伝えるべきことがあると分かっていても、自分が同じ過ちを犯しているのではないかという自覚が、言葉を飲み込ませる。

しかし、完璧にできている人間だけが助言する資格を持つのだとしたら、この世に助言できる人間は一人もいない。

完璧の不在

人間は、死ぬまで未熟だ。

どれほど経験を積んでも、どれほど学んでも、完璧に到達することはない。今日の自分が昨日の自分より少しましであることを願うことはできるが、完璧であることを主張することはできない。

助言する側もまた、助言される側と同じように不完全な存在だ。 差があるとすれば、それは完全と不完全の差ではなく、不完全の種類と程度の差にすぎない。

この事実は、二つの態度を生む。一つは、「自分が完璧でないのだから、他者に何かを言う資格はない」という態度。もう一つは、「自分が完璧でないことを認めた上で、それでも伝えるべきことを伝える」という態度。

前者は謙虚に見えるが、実は逃避だ。自分の不完全さを盾にして、不快な責任から逃れているにすぎない。

棚に上げるという覚悟

「自分のことを棚に上げる」とは、自分の不完全さを忘れることではない。

自分の不完全さを十分に自覚した上で、それでも相手のために言葉を発する覚悟を持つことだ。

「自分もできていない。しかし、相手にとってこの指摘は必要だ」——この矛盾を抱えたまま言葉にすること。それは、ある種の勇気だ。

完璧な人間からの助言は、もし存在するなら、確かに説得力がある。しかし、そのような人間は存在しない。存在しない完璧を待っていたら、助言は永遠に行われず、成長の機会は永遠に失われる。

不完全な人間が、不完全な人間に対して、不完全な言葉で伝える。そのすべてが不完全であっても、何も伝えないよりは、伝えるほうが遥かにいい。

受け取る側の成熟

一方で、助言を受ける側にも問われるものがある。

「お前だってできていないくせに」——この感情は、極めて自然なものだ。しかし、この感情に支配されると、助言の内容を評価する前に、助言者の資格を問うことになる。

助言の価値は、誰が言ったかではなく、何が言われたかにある。 完璧でない人間の口から出た言葉であっても、その内容に真実が含まれていれば、それは聞く価値がある。

「あの人はできていないから、言われたくない」と思う感情の裏には、実は自分が指摘された内容を認めたくない心理が隠れていることがある。発言者の資格を問うことで、指摘された内容から目を逸らしている。

助言を受ける成熟とは、誰が言ったかではなく、何が言われたかに集中する力だ。

不完全同士の対話

完璧な人間は存在しない。したがって、すべての対話は不完全同士の対話だ。

この前提を共有することが、健全な関係の基盤になる。

助言する側は、自分の不完全さを自覚しながら、それでも伝えるべきことを伝える。助言される側は、相手の不完全さを承知した上で、内容に耳を傾ける。

自分を棚に上げることは、無責任ではない。不完全な存在同士が、互いの成長のために、不完全であることを許し合う契約だ。

その契約のなかでだけ、正直な言葉が交わされる。正直な言葉のなかでだけ、本当の成長が生まれる。