「やりたいこと」が見つからない人間は、欠陥品なのか

「やりたいことを見つけなさい」

この言葉は、善意から発せられる。しかし、善意であるがゆえに、残酷だ。やりたいことが見つからない人間に対して、この言葉は「あなたには何かが欠けている」と告げているに等しい。

しかし本当に、やりたいことがないことは、問題なのだろうか。

目標信仰の罠

現代には、目標を持つことを無条件に肯定する風潮がある。

「明確なビジョンを持て」「情熱を見つけろ」「目標に向かって突き進め」——これらの言葉は、すでに目標を持っている人間にとっては励ましになる。しかし、まだ目標を持っていない人間にとっては、「目標を持っていない自分は劣っている」というメッセージになる。

そして焦る。焦って、無理に目標を設定する。それは本当の目標ではなく、「目標がないことへの不安」から生まれた、仮初めの目標だ。

仮初めの目標は、行動を駆動しない。 なぜなら、そこに本当の衝動がないからだ。結果として、目標を立てては挫折し、また別の目標を立てては挫折するという循環に陥る。

行動が先、目標は後

目標があるから行動するのではない。行動の蓄積のなかから、目標が立ち上がってくる。

これは直感に反するかもしれない。しかし、多くの場合、情熱は行動の結果として生まれる。何かをやってみる。やってみたら面白かった。もっとやってみる。もっとやったら、もっと面白くなった。気がつけば、それが「やりたいこと」になっていた。

情熱は、思考のなかからは生まれない。身体を動かし、世界と接触し、経験を積み重ねるなかから生まれる。

立ち止まってやりたいことを探すのは、椅子に座ったまま冒険を計画するようなものだ。どれだけ計画しても、実際に歩き出さなければ、道の先にある景色は見えない。

可能性を閉じないこと

やりたいことを早い段階で「決める」ことには、もう一つの危険がある。

一つのことを選ぶとは、それ以外のすべてを捨てることだ。 十分な経験もないうちに選択を固定すると、本来出会えたかもしれない可能性を、自ら閉ざすことになる。

経験が浅い段階では、自分が何に向いているか、何に心を動かされるかを、正確に知ることはできない。自分を知るためには、自分を試す必要がある。 そして、試すためには、一つの場所に留まっていてはいけない。

様々なものに手を出すことは、「軸がない」ことではない。それは、自分の軸を見つけるための探索だ。

衝動が来るまで

本当にやりたいことが見つかるとき、それは静かには来ない。

雷に打たれるような衝動。理屈では説明できない確信。これをやらなければ生きている意味がない、という切迫感。本物の「やりたいこと」は、そのような強度を持っている。

その衝動が来るまでは、無理に決める必要はない。決めないでいることに焦る必要もない。

代わりに、好奇心に従って動き続ければいい。面白そうなものに手を出し、飽きたら次に行く。その繰り返しのなかで、経験という点が蓄積される。やがてその点と点が繋がったとき、自分でも予想しなかった線が浮かび上がる。

それが、本当の意味での「やりたいこと」だ。探して見つかるものではなく、歩いているうちに、気がつけば足元にあるものだ。