自分の人生の決定権は、誰が持っているのか
愚痴は、決定権を放棄した人間の発する音だ。
「上司が悪い」「環境が悪い」「時代が悪い」——これらの言葉に共通するのは、主語が自分ではないことだ。問題の原因を外部に置くということは、解決の権限も外部にあると認めることに等しい。
そして、解決の権限が外部にあるなら、自分にできることは何もない。だから愚痴を言い続ける。愚痴を言い続けながら、何も変わらない日々を過ごす。
しかし本当に、何もできないのだろうか。
レールの終わり
子供時代には、レールがあった。
親が敷いたレール。学校が敷いたレール。社会が敷いたレール。「次はここに行きなさい」「次はこれをしなさい」——指示に従っていれば、どこかに辿り着いた。
しかし、ある地点でレールは途切れる。途切れた先に広がるのは、道のない荒野だ。 そこには標識もなく、地図もなく、「正解」もない。
この荒野に立ったとき、人は二つの選択をする。誰かが敷いたレールを探して、それに乗るか。自分でレールを敷きながら、前に進むか。
前者は楽だが、行き先は他者が決める。後者は困難だが、行き先は自分で決める。
決定権とは何か
人生の決定権を持つとは、自分の行動の選択を、自分の意志で行うということだ。
それは、常に正しい選択をするということではない。正しいかどうかは、選んだ時点では分からない。決定権を持つとは、選択の結果を、自分のものとして引き受けるということだ。
上司の指示に従って失敗したとき、上司を恨むのは簡単だ。しかし、従うことを選んだのは自分だ。環境が悪くて成果が出なかったとき、環境を嘆くのは簡単だ。しかし、その環境にいることを選んだのは自分だ。
すべての選択には、「それを選んだ自分」がいる。 その事実を認めることが、決定権を持つことの第一歩だ。
他者の声と自分の声
決定権を自分で持とうとすると、他者の声が聞こえてくる。
「そんなことをしても無駄だ」「もっと現実的になれ」「みんなと同じようにしろ」——これらの声は、善意から来ていることもある。しかし、善意であっても、それは他者の経験に基づいた他者の判断だ。
他者の判断で自分の人生を歩くことは、他者の人生を代行することだ。
他者の声は参考にはなる。しかし、最終的な判断は自分が下すべきだ。なぜなら、その判断の結果を引き受けるのは、他者ではなく自分だからだ。
批判されるかもしれない。嘲笑されるかもしれない。しかし、批判する人も嘲笑する人も、自分の人生の結果に責任を取ってはくれない。責任を取らない人間の意見に、決定を委ねてはならない。
決意するだけでいい
人生の決定権を持つために、特別な能力は必要ない。
必要なのは、一つの決意だけだ。「自分の人生は、自分で決める」——この決意だ。
それは壮大な宣言ではない。日々の小さな選択のなかで、「これは自分が選んだことだ」と認識すること。「これは自分の責任だ」と引き受けること。その積み重ねが、決定権を自分のものにする。
決定権を持った人間は、愚痴を言わなくなる。なぜなら、すべてが自分の選択の結果だと知っているからだ。失敗しても、「自分が選んだ結果だ」と受け止め、次の選択に活かす。
自分の人生の決定権を持っているかどうか。 この問いへの答えが、人生の質を決定的に左右する。