支配欲と、手放す勇気
すべてを自分の目で確かめたい。すべてを自分の手で決めたい。
この欲望は、一見すると責任感の表れのように見える。しかし、その根底にあるのは責任感ではない。恐怖だ。
自分以外の人間に任せたら、間違った方向に進むかもしれない。自分が確認しなければ、取り返しのつかないミスが起きるかもしれない。——この恐怖が、支配への欲望を駆動する。
支配の構造
すべてを掌握しようとする人間には、共通のパターンがある。
まず、最初の反応が「否定」から始まる。 他者の提案に対して、まずNGを出す。指摘する点は些末なものが多い。議論に時間を費やした末、結局は最初の提案通りに着地する。そして「この議論に意味があった」と総括する。
しかし、問わなければならない。その議論は、成果物の質を高めたのか。それとも、「自分が関与した」という事実を作るためだけのものだったのか。
次に、言葉と行動が乖離する。 「フラットな組織」「風通しの良い文化」を標榜しながら、実際に率直な意見を述べた人間は排除される。言葉は理想を語り、行動は恐怖に従う。この乖離を、当人は自覚していない場合が多い。
そして、微細なことまで管理しようとする。 一円単位の決裁、一行ごとの文書確認。しかし、すべてを見ることは物理的に不可能であるため、実際にはほとんどが形式的な承認になる。ランダムに目についたものだけが差し戻される。合理性のない管理は、萎縮しか生まない。
選民意識の罠
支配欲の奥底には、しばしば選民意識が横たわっている。
一度の成功が、「自分は他者より優れた判断ができる」という確信を植え付ける。その確信は、他者への不信と表裏一体だ。「自分にしかできない」は、裏を返せば「他者にはできない」という宣告である。
しかし、成功はしばしば運とタイミングの産物であり、個人の能力だけで説明できるものではない。そして何より、一度の成功が未来の成功を保証しないという事実は、支配的な人間にとって最も受け入れがたい真実だ。
「部下が育っていないから任せられない」という口癖がある。しかし、任せなければ人は育たない。泳がせなければ、人は泳ぎを覚えない。育つのを待ってから任せるのではなく、任せることで育てるのだ。
手放すことの本質
手放すとは、放棄ではない。
手放すとは、自分一人の力の限界を認め、他者の力を信じ、その力を引き出すために自分の役割を再定義することだ。
一人の人間が見える範囲には限界がある。一人の人間の判断力にも限界がある。チームの価値は、複数の視点を組み合わせることで、一人では到達できない場所にたどり着けることにある。
しかし、すべてを一人で掌握しようとする人間は、チームの価値を無効化する。メンバーは自分の手足として存在するのではなく、自分にはない視点を持つ独立した知性として存在しているのだ。
その知性を活かすか殺すかは、手放す勇気にかかっている。
信頼と支配
信頼と支配は、しばしば混同される。
支配する人間は「私がいなければ回らない」と感じている。信頼する人間は「私がいなくても回るようにすること」を目指している。
前者は組織を自分に依存させる。後者は組織を自立させる。
どちらの方が「強い」組織を作るかは、明白だ。しかし、後者を選ぶためには、「自分がいなくても回る」という状態を受け入れなければならない。それは、自分の不可欠性を手放すことでもある。
自分が不可欠でなくなることを恐れる人間は、無意識のうちに組織を自分に依存させ続ける。組織が弱くなっているのではない。組織を弱くし続けているのだ。
強さの再定義
真の強さとは、すべてを握りしめることではない。
真の強さとは、手を開き、他者に委ね、その結果を引き受ける覚悟を持つことだ。
委ねた結果、失敗するかもしれない。想定外のことが起きるかもしれない。しかし、その失敗から生まれる学びは、支配のもとでは決して生まれないものだ。
手放すことは弱さではない。手放せないことが弱さなのだ。