「賢い失敗」と「愚かな失敗」を分けるもの
天才は多作である。
エジソンの特許は1,093件。ピカソの作品数は生涯で約14万7,000点。バッハは1,000曲以上を書いた。彼らに共通するのは、圧倒的な成功ではない。圧倒的な試行回数だ。
大量に行動するということは、大量に失敗するということでもある。天才とは、言い換えれば「失敗の天才」である。
しかし、ここに一つの問いが立つ。失敗の数さえ積めば、人は天才に近づけるのか。
答えは否だ。失敗には質がある。
二つの失敗
失敗は二つに分けられる。「賢い失敗」と「愚かな失敗」だ。
この区別は単純なようでいて、実際には多くの人が見誤る。なぜなら、外から見た結果は同じだからだ。どちらも「うまくいかなかった」という事実に変わりはない。
違いは、失敗の前後にある。
賢い失敗には「問い」がある。 何を検証しようとしていたのか、何を学ぼうとしていたのかが明確だ。結果が期待通りでなかったとしても、問いに対する答えは得られている。
愚かな失敗には「問い」がない。 ただ行動し、ただうまくいかず、ただ次へ進む。あるいは同じことを繰り返す。結果が期待通りでないことだけがわかり、なぜそうなったかの手がかりは何も残らない。
素振り一万回の罠
プロ野球選手は、膨大な数の素振りをする。
しかし、素振りを一万回すればプロになれるわけではない。重要なのは回数ではなく、一回ごとの素振りに込められた意図だ。
試合で打てなかったとする。なぜ打てなかったのかを分析する。タイミングか、スイングの軌道か、配球の読みか。仮説を立て、次の素振りでその仮説を検証する。検証結果をもとに仮説を修正し、次の試合で試す。
この循環がなければ、一万回の素振りは一万回の筋トレにすぎない。腕は太くなるかもしれないが、打率は上がらない。
努力の量が成果に結びつかないとき、問題は努力の量ではなく、努力の構造にある。
仮説なき行動の虚しさ
行動することは尊い。立ち止まるよりも、動き出す方がはるかに価値がある。
しかし、仮説なき行動は、暗闇のなかで手当たり次第に壁を叩いているようなものだ。たまたまドアに当たることもあるだろう。だが、なぜドアが開いたのかがわからなければ、次の部屋でもまた手当たり次第に壁を叩くことになる。
「とにかくやれ」は半分正しく、半分間違っている。
正しいのは「行動しなければ何も始まらない」という部分。間違っているのは「行動さえすれば何かが始まる」という部分だ。行動には方向がいる。方向を定めるのが仮説であり、仮説を検証するのが賢い失敗なのだ。
失敗の作法
賢く失敗するための作法がある。
何を学ぶかを、行動する前に決める。 漠然と「うまくいくかどうか試す」のではなく、「この変数を変えたら結果はどう変わるか」を問う。問いが具体的であるほど、失敗から得られる学びも具体的になる。
成長仮説を設定する。 「こうすればこうなるはずだ」という予測を立てる。予測が外れたとき、そこに学びがある。予測がなければ、結果はただの結果であり、学びにはならない。
振り返りを怠らない。 行動の直後に、何が起き、何が予想と違い、次に何を変えるべきかを言語化する。この工程を省くと、失敗は記憶のなかで曖昧な「うまくいかなかった経験」に劣化していく。
失敗を恐れるべきか
恐れるべきは失敗ではない。
恐れるべきは、失敗から何も学ばないまま時間が過ぎていくことだ。
賢く失敗する人間は、一見すると遠回りをしているように見える。しかし実際には、一歩ごとに確実に前進している。愚かな失敗を繰り返す人間は、一見すると行動的に見える。しかし実際には、同じ場所を何度も周回しているだけだ。
失敗とは、正しく向き合えば、この世で最も効率のよい教師である。