「やってみる」という言葉に宿る逃げ道について
「やってみる」と「やる」は、どう違うのか。
日本語では曖昧になりがちだが、英語には明確な区別がある。“Try” と “Do” だ。この二つの言葉のあいだには、思いのほか深い溝がある。
Try には撤退経路が織り込まれている。 Do には、ない。
保険としての「やってみる」
「やってみる」と口にした瞬間、人は無意識のうちに安全弁を開いている。
うまくいかなかったとき「やってみたけどダメだった」と言えるように。最初から、失敗したときの言い訳を準備しているのだ。
これは卑怯なことではない。人間の心理として、きわめて自然な防衛反応である。問題は、この防衛反応が行動の質そのものを変えてしまうことにある。
「やってみる」という姿勢で臨んだ挑戦は、最初の障壁で止まりやすい。なぜなら、止まることが最初から許容されているからだ。壁にぶつかったとき、乗り越える方法を考える前に、「やってみたが無理だった」という着地点が見えてしまう。
一方、「やる」と決めた人間は、壁にぶつかったとき、別の道を探す。迂回路を見つけ、道具を調達し、時には壁そのものの意味を問い直す。なぜなら「やらない」という選択肢が存在しないからだ。
意志とは選択肢を捨てることである
「やる」と決めることの本質は、可能性を広げることではない。むしろ逆だ。
「やる」とは、「やらない」という選択肢を自ら捨てることである。
これは不自由に見えるかもしれない。しかし、すべての選択肢を保持し続けることは、実のところ何も選んでいないのと同じだ。「いつでもやめられる」という自由は、「いつまでも始められない」という不自由と表裏一体なのだ。
哲学者キルケゴールは、これを「決断の飛躍」と呼んだ。合理的な計算をすべて終えたあとに、なお残る不確実性を引き受けて跳ぶこと。それが決断であり、意志の本来の姿だ。
壁がクリエイティビティを生む
「やる」と決めた人間にとって、障害はただの障害ではなくなる。
乗り越えなければならない以上、どうすれば乗り越えられるかを考えざるを得ない。その思考の切迫さが、平時には決して生まれない発想を引き出す。
困難と意志が交差する点にこそ、創造性は生まれる。
簡単にできることには創造性は必要ない。手順通りにやれば済むからだ。しかし、誰もやったことのないことを「やる」と決めた人間には、手順がない。道がない。だからこそ、道を切り拓く力が湧く。
「やってみる」人間は、壁の前で立ち止まり、壁の高さを測る。 「やる」人間は、壁を前にして、壁の向こう側を想像する。
同じ壁を見ているはずなのに、見ているものがまるで違う。
言葉は思考を規定する
「やってみます」と言い続けることの危うさは、行動だけにとどまらない。
言葉は思考を規定する。 繰り返し口にする言葉は、やがて思考の型となり、人格の輪郭を形づくる。
「やってみる」が口癖の人間は、やがてすべての物事に対して試行的な態度をとるようになる。仕事に対して、人間関係に対して、自分の人生に対して。常にどこかに退路を残し、全力で向き合うことを避けるようになる。
それは穏やかな人生かもしれない。安全な人生かもしれない。
しかし、自分の人生を「やってみた」で終えることは、本当に望んでいたことだろうか。
「やる」と決める
成功するかどうかは、わからない。そもそも「成功」が何を意味するかすら、歩き始めなければ定まらないかもしれない。
それでも「やる」と決める。
この決断の瞬間にこそ、人間の自由がある。外部の条件に左右されない、自分自身の意志による選択。それだけが、誰にも奪えない自由である。
「やってみる」という言葉を使いそうになったとき、一度立ち止まって考えてみてほしい。
その言葉の裏に、何を守ろうとしているのか。 そして、守ろうとしているそれは、本当に守る価値があるものなのか。