人を導くとは、どういうことか
人を導くとは、何をすることなのか。
指示を出すことか。管理をすることか。評価をすることか。——そのいずれでもない。
人を導くとは、その人が持っている力を、その人自身すら気づいていない形で引き出すことだ。
三つの仕事
導く者の仕事は、突き詰めれば三つに集約される。
方向を示すこと。役割を定めること。人を活かすこと。
方向がなければ、人は動けない。どれほど優秀な人間でも、どこに向かうかが分からなければ、力の使い方が分からない。方向とは、「何のためにここにいるのか」「何を実現しようとしているのか」という問いへの答えだ。
役割がなければ、人は迷う。集団のなかで自分が何をすべきか分からないとき、人は自分の存在意義を見失う。役割とは、全体のなかでの自分の位置を知ることだ。 それによって初めて、自分の力をどこに注ぐべきかが明確になる。
そして、適材適所。すべての人間には、最も力を発揮できる場所がある。 その場所を見つけ、そこに人を配すること。これができれば、「無能な人間」はこの世に存在しなくなる。
「無能」という幻想
「あの人は使えない」という言葉を、安易に口にする者がいる。
しかし、使えないのはその人ではなく、その人を活かす場所を見つけられなかった側の問題であることが多い。
年齢も性別も経験年数も、人間の価値を測る基準にはならない。ある環境では力を発揮できなかった人が、別の環境では驚くほどの成果を出す。それは珍しいことではない。
「この人には何ができないか」ではなく、「この人には何ができるか」を問うこと。 この問いの方向を変えるだけで、見える景色はまったく変わる。
人を「無能」と断じることは、実は自分自身の想像力の限界を告白しているにすぎない。
やり方を手放す
方向と役割を示したら、その先は任せるべきだ。
手段まで指定する人間は、導いているのではなく、支配している。 導くことと支配することは、外見は似ているが、本質は正反対だ。
ある目標に到達する方法は、一つではない。自分が過去に成功した方法が、他者にとっても最適であるとは限らない。時代が変われば、最適な手段も変わる。
手段を指定する導き手は、無意識のうちに二つの過ちを犯している。一つは、自分の経験を普遍的な真理と混同していること。 もう一つは、他者の創造性を否定していること。
「何を成すか」は共有し、「どう成すか」は委ねる。この区別ができる人間だけが、他者の力を真に引き出すことができる。
分断を生まない
集団のなかで、人は比較する。
自分と他者の役割を比較し、自分の方が重要だと思いたがる。あるいは、自分の方が軽視されていると感じる。この比較が、分断を生む。
分断を防ぐ唯一の方法は、すべての役割がなぜ必要なのかを、全員が理解していることだ。
方向が明確で、その方向に向かうために各人の役割がどのように貢献しているかが見えていれば、役割の上下を比較する意味がなくなる。すべての役割は、同じ目的に向かう不可欠な要素であり、そこに序列はない。
導く者の最も重要な仕事は、この構造を設計し、全員に理解させることだ。人を動かすのではなく、人が自ら動きたくなる構造を作ること。 それが、導くということの本質だ。
記名する責任
導かれる側にも、責任がある。
自分がどのような役割において最も力を発揮できるかを、自ら理解し、それを表明すること。自分の成果に名前を刻むこと。
「やりました」と言えること。「これは自分の仕事です」と胸を張れること。この「記名」の覚悟が、適材適所を最短で実現するための、最も確実な方法だ。
導く者と導かれる者の関係は、支配と服従の関係ではない。方向を共有し、役割を理解し、互いの力を信じて委ね合う、対等な協働の関係だ。
この関係が成り立つとき、集団は個人の総和を超えた力を発揮する。