ないものを求めるより、あるものを活かすほうが遥かに強い

どんな人間にも、できることとできないことがある。

これは当然のことだ。しかし、当然であるにもかかわらず、人はしばしば他者の「できないこと」に目を向け、それを「できるようにしろ」と求める。

自分にできるからという理由で、他者にもできることを要求する。自分の基準で他者を測り、その基準に達していない部分を「欠点」と呼ぶ。

しかし、本当に問うべきは別のことだ。「できないこと」を「できるようにする」のと、「できること」を最大限に活かすのと、どちらがより多くの可能性を開くのか。

欠点の矯正という幻想

できないことを、できるようにすることは不可能ではない。

しかし、そこに費やされるエネルギーは膨大だ。そして多くの場合、膨大なエネルギーを注いでも、結果は「かろうじてできる」レベルに留まる。

一方、もともとできることに同じエネルギーを注いだ場合、その到達点ははるかに高い。欠点を「並」にするエネルギーと、長所を「卓越」にするエネルギーは、同じ量でも生み出す価値が桁違いに異なる。

にもかかわらず、多くの場面で欠点の矯正が優先される。なぜか。それは、欠点が「見えやすい」からだ。基準に達していない部分は目立つ。目立つものに対処したくなるのは、人間の自然な反応だ。

しかし、目立つものが重要なものとは限らない。 見えやすい欠点よりも、見えにくい長所のほうが、はるかに大きな可能性を秘めていることがある。

完璧という不可能

完璧な人間は存在しない。

すべてにおいて優れている人間は、一人もいない。ある能力に秀でた人間は、別の能力において劣っていることが多い。これは欠陥ではなく、人間という存在の本質だ。

ある人間にとっての「できないこと」には、必ず理由がある。適性の問題かもしれないし、経験の問題かもしれない。あるいは、その人間が意識的にも無意識的にも、別の能力を伸ばすことを選んできた結果かもしれない。

他者の「できないこと」を責めることは、その人間の全体を見ていないことの表れだ。 ある面での不足は、別の面での充実と裏表であることが多い。

補い合うということ

一人の人間がすべてをできる必要がないのだとしたら、残る問いはこうだ。複数の人間が、互いの「できないこと」を、それぞれの「できること」で補い合えるか。

これが、共に働くことの本質だ。

全員が同じことをできるようになることが目的ではない。それぞれが異なることをできる状態で、その異なる「できること」を組み合わせること。 それが、一人では到達できない場所に、集団として到達する方法だ。

ある人間の弱さは、別の人間の強さによって補われる。ある人間の強さは、別の人間の弱さがある場所でこそ、その価値を発揮する。弱さは排除されるべきものではなく、他者の強さが活きる場を作るものだ。

あるものに目を向ける

ないものを嘆くより、あるものを見出すこと。

できないことを責めるより、できることを活かす方法を考えること。この転換は、人間を見る目の転換であり、同時に、人間の可能性に対する信頼の転換だ。

すべての人間には、その人間にしかない何かがある。それは、標準的な評価基準では見落とされるかもしれない。「できないこと」のリストに埋もれて、見えなくなっているかもしれない。

しかし、それは確かにそこにある。「ないもの」の向こう側に、まだ発見されていない「あるもの」が眠っている。

それを見つけ出し、活かすこと。それが、人間と共にいるということの、最も本質的な意味だ。